先日、高齢者の方を対象に、大学校での講義がありました。
みなさんの、学びたい意欲、熱気がすばらしく、こちらがとても刺激を受けました。

ようやく、今年の講演、発表の予定が終了しました。ありがたいことに、来年もすでに3回の講演、発表予定が入っています。耳鼻科の一般開業医として診察をしているだけなので、決して新たなことを発見した、新しい取り組みをしている、ということではありませんが、いくつかの代替医療を中心に、現代西洋医学とあわせた統合医療について、お話しする機会がいただけることに、感謝しています。

昨年末、書籍を出版させていただきました。

その中でもふれました。アメリカの教育家で、自ら盲聾の障害を持ちながら、身体障害者の教育や福祉に尽力したヘレン・ケラーのことばです。

書籍より 

「耳が聞こえないことは、目が見えないことよりも、より痛切で、より複雑なことです。聾(まったく聞こえないこと)は盲目より不運なことです。なぜなら、それは最も重要な致命的刺激を失うことを意味しているからです。つまり、言語をもたらし、思考を活性化し、人間同士の知的交際を可能にするのに欠かせない、声という最も重要な音刺激を失うことになるからです」

決して、目が見えないことのほうがましだ、ということではありません。耳が聞こえないということは、それほどつらいのだということを表した言葉だと思います。

先日、娘とも、耳鼻科の病気のことを話す機会がありました。もちろん、ヘレンケラーのことばは知らないのですが、

「自分(娘)なら、やっぱり目が見えないよりも、耳が聞こえない方がつらいと思うなあ。
だって、耳は聞こえないだけじゃなくて、ことばも話しにくくなるし、気分もふさがってやる気がでないし、
たいへんやから。」

と話していました。小学生ですが、そんな感覚を持っているんだなあ、と少し関心していました。

もちろん、五感の中の、80~90%が視覚から得ている、といわれる現代社会ですから、眼が見えないことのつらさは、はかりしれないものがあります。また一方で、聞こえない方を診察している身としては、聞こえないことは、いろいろな苦痛、不自由さをともなってきます。そのつらさに思いがいたるかどうか。

先日、来院された難聴、耳鳴りの高齢の患者さんも、

「他の病院に2年も通ったけど、薬を出して、1分で診察が終わります。
先生、なんとかならないでしょうか…。」

とおっしゃっていました。「年をとったら、聞こえなくなって当たり前!」という感じだったようです。

いろいろとお聞きすると、補聴器も全くすすめれたこともなかったようでした。
最近では、補聴器で音を脳に伝えることで、脳の疲れをとってあげると、耳鳴りもかなり軽減する方がおられるので、
さっそくトライしてみることになりました。

すべての難聴、耳鳴りの方を治せるわけではありませんが、お一人おひとり、さらにその方の一つひとつの訴えに、耳をかたむけることが、何より大切ですね。

きたにし耳鼻咽喉科